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エピソード

気が付けなかった本音

彼女はまだ60歳でした。旅先で倒れ緊急搬送、末期がんが見つかりました。夫は治療を望みましたが体力がないため「食べれるようになって体力が付いたら入院治療しましょう」の方針で退院しました。そこから週に1度、1時間の訪問が開始され、彼女は初めての訪問看護師をどう受け入れていいのか分からず戸惑っている様子でした。交わされるたわいない話、清潔の援助、痛み止めの使用頻度や体調の聞き取り、そして体に触れるソフトなマッサージ。静かに流れる1時間。
ある日主治医から「治療をする気はあるのか、意向を確認してください」と言われました。しかし私には彼女の心に近づけていないことは分かり切っており、上司に言いました。すいません私では役不足です、健康な私が1週間のうちのたった1時間を共有するだけで、がんの末期の現実を生きている彼女の本音はとても聞きだせません、と。
それから間もなくの訪問時、ご主人が私をわざわざ迎えに出てきました。「泣いている、なんとかして」と。部屋に入るといつも物静かな彼女が別人のように泣きじゃくりながら「病気のことを考えず知らないふりをしていれば毎日ちゃんと朝が来て、いつのまにかこの病気が無くなってる世界になるんじゃないかって思ってた。知らないふりをしていたかった。でももうだめ。ごめんね、あなたに何も話さなくて。あなたが来てくれる木曜日のこの1時間がすごく楽しみだった、ありがとう」と泣き崩れ思いもよらない本音を話していただけました。
彼女は孤独で、恐怖心と戦っていた。たった一人で、不安と恐怖の闇に飲み込まれないよう必死で現実と向き合うことを避けていた。不安を口にする、イコール現実と向き合う、だったから。どれほど心細く、どれほど苦しかったか。眠れぬ夜は長く、そんな夜を何度一人で越えたのだろうか。
自力で外にでられず在宅療養される方にとって、誰かと話をすること、一人じゃないこと、自分に会いに来てくれる事、つい当たり前と思うこともそれは当たり前ではないのだと教えていただきました。
ずっとそばで見守っていきたかったのですがその後すぐ入院され訪問看護は終了となりました。






信頼

訪問看護の世界に入って間もないときでした。新規のご利用者様を担当することになりました。その方は高齢男性のご利用者様で奥様と二人暮らし。難病の紫斑病を患われており、主治医からは「アルコールの話はしないこと、禁酒できるかが鍵」と指示書に書かれていました。
奥様は品があり常に丁寧な言葉使いで細やかでしたが、嫁に来てから苦労が絶えずご利用者様に対し築年の不満があるようでした。ある日訪問するとご利用者様はお酒を飲まれていました。奥様は腰に手を当ててあきれたようにその様子を見ながら「この事は先生には内緒にしてね」と私に言いました。
訪問終わりの帰り道、私は悶々としました。看護師は医師の指示で動くもの、主治医に報告しなくていいのか?でもそしたら利用者様からの信用を失う。悶々と考え続けステーションへ戻り上司に報告すると「じゃ、内緒にしておきましょ」と即返答。唖然とし言葉を返せない私に上司は「だって利用者様との信頼関係は大事だもんね」と続けました。その迷いのない返事に衝撃を受けました。
その後その利用者様は訪問中に頻脈発作を発症、救急車を呼ぶべきですと奥様に伝えたところ「先生に聞いてみるわ」と私の目の前で主治医に電話をされました。「心臓が止まってから救急車を呼べばいいって」とケロリ。後日主治医に「私は医療従事者です、見殺しなんてできません!」と抗議。主治医は笑いながら「確かにそうだね」と。でも主治医は彼が禁酒できないことも見通しており頻脈発作のレベルも把握されていました。私だけが蚊帳の外でした。一人の患者さんの状態だけでなく、生活習慣、性格と夫婦の関係までも把握した主治医。そこまで深く関われる在宅医療、私はとても感銘を受けました。






愛しき人

ALSと診断され人工呼吸器をつけた背の高い高齢男性は、高齢の奥様と娘様の3人暮らしでした。
日当たりのいい部屋に彼はいました。室内は常に人工呼吸器の換気音がし、奥様は楽しそうにご主人に話しかけるのがとても印象的でした。おしゃべりの好きな奥様でいろんな過去を話してくれました。「私はね、この人にとっても感謝してるの。だからこうして恩返しができてとっても嬉しいの」
部屋には家族の写真が所狭しと飾られていました。人工呼吸器の管理と胃ろうからの栄養剤注入、モニターのアラーム、夜間の痰吸引、寝たきりで医療依存度の高い夫の24時間を同居の娘様と協力し、疲労の色も見せず、むしろ楽しむかの様に日々を過ごされていました。
彼を思う気持ちがいつしか医療従事者を越えた発想で「必ず守る」と奥様をさらに強くしていきました。
でも相手は病魔です。じわりじわりと厳しい現実が現れます。その都度奥様はその魔の手からご主人を守っていましたが、最期の時は突然やって来ました。
その時奥様はご主人の痰を吸引し、今までにないほどたくさん釣り上げたようで「私ってば、天才!」と釣り上げた痰をご主人に見せ得意げに笑ったそうです。壁に飾られた写真には奥様の笑顔がありますが、その笑顔はまるでひまわりの様で、にっこり周囲を明るくする素敵な笑顔です。その笑顔を見た後、ご主人は急変し戻らぬ人となりました。
後日お部屋にお邪魔させていただくと、ご主人の写真には白とピンクの花が貼られ(本来は白と黒)その写真を一点に見つめたまま、あの時こうしておけば、なんでああしなかったのか、と自責の念と後悔を募らせた後に絞り出すように「あなた、大好きよ…」と言った言葉が今も忘れられません。
私は思うのです。残された人ができることは「後悔」だけなのです。過去には戻れないのですから。でも忘れないでほしい、あの時あの瞬間に選択したこと、とった行動、それはその時のベストなのです。全力で向き合ったその気持ちは、旅立つ人には伝わっています。旅立つ側にも残していかなければならない心苦しさがあるのです。
だから旅立つ人が心配しないためにも、どうか後悔して自分を苦しめるのだけはやめてください。全力で向き合ったその気持ちに旅立つ人は感謝しています。だからどうか、自分を責めたりしないでほしいです。
彼が最期、見たものが奥様のひまわりのような笑顔でよかった。きっとこの笑顔が大好きだったはずですから。
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