お問い合わせ 03-5761-9471

認知症について

認知症支援を考える会 の開催


当ホームページを閲覧下さいましてありがとうございます。つたない文章にお付き合い下さいまして本当に感謝致します。
このページでは認知症の捉え方は、ともすると学術的な理論に偏りがちですが、できるだけ現実的な視点で書かせて頂いています。多くの認知症に関わる方々が「認知症を如何にとらえるべきか?=認知症観」を考える際に参考となる内容となるように努力して参ります。
タイトルの「認知症支援を考える会」という催しを昨年は3回開催致しました。第1回は行政・包括の皆さん、第2回はサービス事業者の皆さん、第3回は地域住民の皆さん、を対象にご参加を募りました。小さな働きかけではありますが、本年度中に第4回を予定しています。

その他、本ホームページや認知症介護に関するご意見、ご質問等がございましたら、どなた様でもお気軽に以下のメールアドレス宛にご連絡くださいませ。
デイサービスつむぎ狛江 メールアドレス tumugikomae@gmail.com

「認知症は治らない」を受け入れる_ということを考える

「認知症は治りません」と支援関係者や医療関係者に言われたご経験をされた方もおられると思います。「絶望を突き付けられた」と感じられた方もおられるでしょうが、論理的には間違っていません。では治ったとはどういう状態か? おそらく発症前のその人に戻るということでしょう。これが非現実的であることは、先月の自分に戻る、ということが無理であることからも明らかです。つまり認知症=病、病は治る、ということが観念の前提にあると人情的に「治す方法はないか?」と考えてしまうことは当事者や介護するご家族であれば無理からぬ心情です。しかし「治りません」と言われる・・・お察しします。
例えば生活習慣病である糖尿病と比べてみます。生活習慣病とはその呼び名のごとく、それまでの生活で回数を蓄積してきた習慣が糖尿病を引き起こしてしまったわけです。(糖尿病のすべてではありません)したがって生活していくことが病化してしまったとき、治すためには生活自体を完全に変えていかなくてはなりません。これはつまらないですよ。なにせ楽しみが罪になるわけですし、なんのために生きてるのか?とまで考えてしまいそうです。このようにそれが無理で、現実的ではないから現在の投薬やインスリン補充などの医療対応になっているわけですね。
以上を考え合わせると、結論として「上手につき合っていく方法」に頭をひねる方が建設的だと思いませんか_ということになるわけです。

介護でストレスを溜める自分を責めてはいけません。なぜなら…

介護が(特に認知症の状態にある家族の介護は)ストレスになることは「正常な人の反応」だからです。アルツハイマー型認知症のよく見られる状態に「取り繕い」があります。たとえば認知症ではない誰かと話をしていて、その場その時で話のつじつまを合わせようとします。認知症ではない人は記憶が継続していて累積されていますから、その場その時の返答がそれ以前に話していた内容と矛盾していたりすることに気が付いてしまいます。しかし矛盾に気が付ける記憶機能をもっているのは認知症ではない人の方だけですから、結果的にストレス化するのは「認知症ではない人」になりますね。矛盾に気づいた話をそのままでやり過ごすことは、実はそう簡単ではありません。したがって時間の経過と共に苛立ってきます。場合によっては怒鳴ってしまうこともあるでしょう。怒鳴られた本人はその経緯を把握する機能が「無い」わけですから、本当に「訳が解らず怒鳴られた」という「矛盾」を感じるわけです。
すると同様に「矛盾に気が付いたままやり過ごすことは簡単ではない」ので、持てる能力をフルに使って反発します。しかし論理的には矛盾した反発であり、取り繕い的な内容になることが多いでしょう。
認知症とそうでない人との違いはここからです。継続した記憶機能ではあまりの論理性の無さに「呆れた感覚」が残り、失われていく記憶機能では「理由なき苛立ち感覚」だけが残ります。

如何でしょう? 介護する自分だけが、自分を責めなければならない様なコミュニケーションではないのではありませんか。加えて「苛立ち」よりも「呆れる」心理状態の方が傷が深手だと思います。なので、ご自分に鞭を打つのではなく、むしろ優先的に労わってあげて下さい。